【PDF版】Fictosexual Perspective 2024
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本誌は、フィクトセクシュアル当事者の経験やフィクトセクシュアルの観点からの思考を記録する同人誌です。春頃に原稿募集を行い、14名にエッセイや論考を執筆していただきました。多様なセクシュアリティ/ジェンダーの方から寄稿していただいたほか、韓国や台湾の方からも寄稿していただきました(掲載記事はすべて日本語です)。さらに特別寄稿として、NPO法人うぐいすリボンの荻野幸太郎さんの記事も掲載しています。 ページ数:140ページ 以下に目次と序文(「はじめに」)の一部を公開していますので、ぜひご覧ください。
目次
はじめに 中央総武線各駅停車(くだり)(著:冬) アセクシュアルのフィクトセクシュアルのマスターベーション(著:ニヒる九) 自由と孤独を慈しむ、フィクトセクシュアルの生き方(著:香住琉水) フィクトセクシュアルの私と、「オタク」の兄(著:ぷかぷかぽんぽん) 対人性愛という特殊性癖(著:鳴澤) 私と、私の頭の中のひとたち(著:Tachibana) 眼差されるということ(著:ぬるゆ) 推し、そして推しを越えて唯一無二の存在として(著:紺乃海波) How far have I been going to say I am a fictoromantic?(著:おみくろん) 「山田葵は俺の嫁」と言っていたかつての私へ(著:ブルーベリーのおめめ) 性的指好と現実のジェンダー観は一致しないということ(著:matsmomushi) フィクトセクシュアルという言葉に救われたことと、今の悩み(著:鳥昆布) 「Fセク」:私の誇らしきアイデンティティ(著:李正薫) 台湾で生きているフィクトセクシュアル(著:廖希文) 非対人性愛、多重見当識、ジェンダー・トラブル(著:廖希文) 特別寄稿:私が「表現の自由」の仕事をするようになった理由(著:荻野幸太郎) 付録:フィクトセクシュアルから考えるジェンダー/セクシュアリティの政治(著:松浦優)
はじめに(松浦優)
「フィクトセクシュアル」という言葉は、日本語圏では2017年ごろから使われ始めたもので、「架空の性的表現を愛好しつつも実在の他者には性的惹かれを経験しないということ」もしくは「『性愛』や『恋愛』として一般的に想定されるような営みを架空のキャラクターと行いたいと感じること」を表すものとして使われています。また、とくに架空の対象への恋愛的惹かれを表す言葉として「フィクトロマンティック」が使われることもあります。 ある面で、フィクトセクシュアルという言葉は性的アイデンティティを表すための用語です。架空のキャラクターに惹かれたり、架空の性的創作物を愛好したりすることは、決して目新しいことではないでしょう。ですがフィクトセクシュアルという言葉は、そうしたことを自らの性的アイデンティティとして引き受けているということを表すために使われています。 これに加えて強調しておきたいのは、フィクトセクシュアル概念の意義は性的アイデンティティを表明することだけではない、ということです。フィクトセクシュアルという言葉は、架空の対象へ性的に惹かれることや、二次元の性的創作物を愛好する営みを、対人性愛と対等なセクシュアリティとして捉える視座を切り開くものでもあります。そして実際にフィクトセクシュアルの立場からは、対人性愛を誰もが望むものだとする思い込みを相対化し、対人性愛を基準とした価値判断を問い直す議論が提起されています。 本誌では、フィクトセクシュアルという概念から示唆される視座を「フィクトセクシュアル・パースペクティブ」と呼ぶことにしています。フィクトセクシュアル・パースペクティブとは、対人性愛中心主義(対人性愛を規範的なセクシュアリティとみなす発想)を批判する見方のことです。 フィクトセクシュアル・パースペクティブは、フィクトセクシュアルを自認していない人にも開かれています。この視座を通して、異性愛規範という概念だけではすくい切れない問題が明らかになると同時に、対人性愛に疑問を持ったことのない人にも新しい見方がもたらされるはずです。本誌に掲載されたエッセイは、いずれも多様な立場から、こうした視座を展開しています。本誌を通して、ぜひ読者のみなさまもセクシュアリティなるものについてあらためて考えてみていただければ幸いです。